Essay 01
違和感を覚えること自体は、特別なことではない。
誰もが日常の中で、言葉にしづらい引っかかりを感じている。

けれど、その違和感を
「感情」や「相性」ではなく、
構造として捉えはじめたとき、
人は少しずつ、同じ場所に立てなくなる。

構造を見るというのは、
誰かを批判することではない。
正しさを主張することでもない。

それは、
その場がどのような配置で成立しているのか、
どんな役割や期待が暗黙のうちに置かれているのかを
一段引いた位置から眺めてしまう、ということだ。

多くの場は、
見ないことで保たれている。
気づかないふり、
聞こえなかったことにする配慮、
言語化しないことで守られる均衡。

その均衡は、
必ずしも悪意で成り立っているわけではない。
むしろ、多くの場合は善意と効率によって支えられている。

だからこそ、
構造を言葉にしてしまう人は、
「空気を壊す存在」になりやすい。

誰かを責めたわけでもなく、
反論したわけでもないのに、
ただ配置を言語化しただけで、
場の温度が変わってしまう。

孤独は、
拒絶の結果として生まれるとは限らない。

構造を見てしまった人は、
その場の前提を
以前と同じ無邪気さでは
共有できなくなる。

笑顔や明るさ、
「大丈夫」という言葉の裏側にある
機能や役割が見えてしまうからだ。

それは、
他者を信用していないということではない。
むしろ、
その場がどれほど繊細な均衡の上に成り立っているかを
理解してしまった結果でもある。

構造を見る人は、
正しさを振りかざしたいのではない。
ただ、
何が起きているのかを
なかったことにできなくなっただけだ。

その視点は、
人を強くするわけでも、
正しい側に立たせるわけでもない。

ただ、
同じ場所に居続けることを
少しだけ難しくする。

それが、
構造を見ることが引き受ける
孤独の正体だと思う。

それでも、
この視点を手放せないのは、
世界を雑に理解したくないからだ。

違和感を感情に押し戻さず、
個人の問題に回収せず、
構造として引き受けること。

それは、
誰かの上に立つためではなく、
世界と向き合うときの
自分の位置を、
誤魔化さないための選択なのだと思う。



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