沈黙は、しばしば誤解される。
何も言わないことは、
分かっていないこと。
考えていないこと。
あるいは、関心がないこと。
そう解釈されやすい。
けれど、沈黙は必ずしも
理解の不足から生まれるわけではない。
むしろ、
分かりすぎてしまったときに、
言葉が慎重になることがある。
言葉にした瞬間、
構造が壊れてしまうと分かっているとき。
説明することで、
関係の前提が変わってしまうと
予測できてしまうとき。
沈黙は、
無知の結果ではなく、
理解の過剰から選ばれることがある。
沈黙を選ぶ人は、
状況を把握していないのではない。
むしろ、
どこまで言えば何が起きるのかを
具体的に想像できてしまう。
誰が傷つき、
誰が防御し、
どんな力関係が
表に出てしまうのか。
それらを見通したうえで、
今は言わない、
という判断が下される。
沈黙は、
言葉を放棄した状態ではない。
言葉を持ったまま、
使わないという選択だ。
だから沈黙には、
思考の痕跡が残っている。
判断の重さが残っている。
引き受けた結果が
静かに沈んでいる。
沈黙を
「何も考えていない」と
決めつけるのは、
言葉だけを理解の証として
扱いすぎているのかもしれない。
理解は、
必ずしも表明を必要としない。
分かったからこそ、
今は言わない。
見えたからこそ、
触れない。
沈黙は、
関係を避けるための壁ではなく、
関係を粗くしないための
最小限の距離であることがある。
言葉にしないという判断は、
関係を諦めた証ではない。
それは、
関係が壊れやすいことを
知っている人が選ぶ、
ひとつの誠実さなのだと思う。
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Raffinē
内側の美と、思考の記録。