ある人の笑顔を見て、
ふと立ち止まる瞬間があった。
明るくて、場を和ませるような笑顔。
声のトーンも高く、空気を軽くする振る舞い。
一見すると、とても自然で、感じのいいものだった。
けれど、なぜか身体が少しだけ緊張した。
嫌悪感ではない。
違和感、と呼ぶほど強いものでもない。
ただ、ほんのわずかに「置いていかれる感じ」があった。
その笑顔は、
その人の内側から立ち上がっているというより、
場に合わせて正確に調整された光のように見えた。
明るさそのものが悪いわけではない。
ハイテンションが間違っているわけでもない。
ただ、自然体という言葉が、そこには当てはまらない気がした。
自然である、というのは
力が抜けていることではなく、
無理が見えないことでもなく、
「整っている」こととも、少し違う。
むしろ、
余計な力を抜こうとしなくても
そのままで空気と噛み合ってしまう状態に
近いのかもしれない。
だから、明るさが過剰に感じられるとき、
そこには「足されている何か」を感じ取ってしまう。
足されているのは、
元気かもしれないし、
配慮かもしれないし、
優しさや、生きるための戦略かもしれない。
それでも、
足された瞬間に、
空気はほんの少しだけ硬くなる。
静かであることが自然なのではない。
落ち着いていることが正解でもない。
ただ、
自分の内側の温度と、
外に出ている表情の温度が
同じであるとき。
人は、理由なく安心する。
あのとき感じた違和感は、
そのズレに、身体が先に気づいただけだったのだと思う。
自然体とは、
振る舞いの話ではなく、
内側と外側の温度差が
ほとんど存在しない状態のことなのかもしれない。
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Raffinē
内側の美と、思考の記録。